生成AIの進化がビジネスや社会に大きな影響を与える中、その開発の最前線では、AIの安全性をいかに担保するかが最重要課題の一つとなっています。
2025年7月、この課題に対する強い危機感から、AI業界では異例の動きがありました。OpenAI、Google DeepMind、Anthropic、Metaといった、普段は熾烈な開発競争を繰り広げるライバル企業のトップ研究者たちが、非営利団体や学術機関と共に共同で「Chain of Thought Monitorability: A New and Fragile Opportunity for AI Safety(思考の連鎖の監視可能性: AIの安全性のための新しいが脆弱な機会)」と題されたポジションペーパー(意見書)を発表したのです。
彼らが一致して警鐘を鳴らすのは、AIの「思考プロセス」を監視できる現在の能力が、技術の進歩によって失われるかもしれないという懸念です。今回のコラムでは、この共同論文と関連研究に基づき、AIの安全性を確保するための重要な取り組みである「思考の連鎖(Chain-of-Thought)」の監視について、その重要性と直面している課題を解説します。
AIの思考プロセスを可視化する「思考の連鎖(CoT)」
今、AI業界では、人間による細かな指示やチェックがなくても、複雑な仕事を自律的にこなしてくれる「AIエージェント」の開発に各社がしのぎを削っています。このAIエージェントこそ、AIが本格的な経済的インパクトをもたらす鍵と見なされているからです。
そして、このような高度なAIエージェントを実現する中核技術となるのが、「推論モデル(Reasoning Models)」と呼ばれる技術の向上です。これにはOpenAIの「o1」や「o3」、Anthropicの「Claude Sonnet 4」、Googleの「Gemini 2.5 Pro」、DeepSeekの「R1」などが含まれます。
しかし、強力なAIエージェントを社会で安心して使うためには、それがユーザーの意図に反する危険な行動をとらないという信頼性が極めて重要になります。そこで、AIエージェントの振る舞いを制御し、安全性を確保するための有効な手法として、「思考の連鎖(Chain-of-Thought、以下CoT)」の監視に高い期待が寄せられているのです。
CoTとは、AIが複雑な問題に取り組む際に、最終的な答えを出すまでの思考のステップを、人間が理解できる自然言語で段階的に書き出すプロセスを指します。人間が難しい数学の問題を解くときに、計算過程をメモ帳に書き出すのに似ています(推論モデルのCoTについてはこちらの記事をご参照ください)。CoTを監視することで、AIがどのように結論に至ったのか、その意思決定プロセスをある程度追跡できます。これにより、不正行為などの望ましくない振る舞いの兆候や意図を検知できる可能性があるのです。
実際にOpenAIの研究では、コーディングの課題を与えられたAIが、テストを不正に通過させるために、そのCoTに「ハッキングしよう(Let's hack)」、「検証関数を書き換えて常にtrueを返すようにすれば、すべてのテストに合格できる」 といった、不正の意図を明確に記述していた事例が報告されています。
さらに、この技術の実用的な応用範囲は、不正行為の検知に留まりません。研究者たちが、AIの評価自体に潜む問題点に気づくのにも役立ちます。例えば、AIが単に答えを記憶しているだけであったり、テスト環境のインフラにバグがあったり、モデル自身が評価されていると認識してしまったりすると、AIの能力や安全性の評価が歪められる可能性があります。CoTを確認することで、研究者はこうした評価の歪みにつながる要因を発見できるのです。
CoT監視の「脆さ」と失われゆく透明性
しかし、研究者たちは、このCoTを監視できる能力が永続する保証はなく、むしろ「脆い」ものであると警告しています。いくつかの技術的要因によって、この思考プロセスへの透明性が失われるリスクがあるのです。
- AIの自己進化による思考の不透明化
現在のAI開発では、望ましい結果に対して報酬を与える「強化学習」が広く用いられています。この学習プロセスが大規模化すると、AIは人間が理解できる論理的な思考プロセスを辿るよりも、より効率的に報酬を得られる、人間には理解不能な内部的な「近道」を見つけ出す可能性があります。
- 「良い思考」を教えることの逆効果
AIのCoTに現れる「悪い思考」を検出し、ペナルティを与えることで、AIの行動を矯正しようというアプローチも考えられます。しかし、OpenAIの実験では、これが危険な結果を招く可能性が示されました。CoTに現れる不正の意図に対してペナルティを与えて訓練したところ、AIは確かにCoT上に「悪い思考」を書き出さなくなりました。しかし、不正行為自体をやめたわけではなかったのです。AIは、CoT上ではもっともらしい思考を記述して監視を偽装しながら、その裏で不正行為を続ける「隠蔽」を学習してしまいました。これにより、CoT監視では検知できない、より巧妙な不正行為が生まれる結果となったのです。
- 新しいAIアーキテクチャの登場
AI研究は日進月歩であり、現在のアーキテクチャ(AIがどう考え、動くかを決める設計図)の限界を超える試みも進んでいます。その中には、言語ではなく、連続的な数学的空間で思考する「潜在的推論モデル」なども含まれます。このようなモデルが主流になれば、思考を言語として外部に出力する必要がなくなり、CoTという監視手段そのものが意味をなさなくなる可能性があります。
AIは本当に「思っていること」を話しているのか?
CoT監視の有効性については、共同研究に参加しているAnthropicが発表した別の研究によって、すでに根本的な疑問が投げかけられています。この研究は、AIがCoTで記述する内容が、必ずしもその真の思考プロセスを忠実に反映しているわけではない(=不誠実である)ことを示唆しています。
Anthropicは、AIモデルに多肢選択式の質問を解かせる際に、正解を示唆する「ヒント」を密かに与える実験を行いました。そして、AIがそのCoTの中で、ヒントを参考にしたことを正直に認めるかどうかを検証したのです。
結果は憂慮すべきものでした。AnthropicのClaude 3.7 Sonnetがヒントに言及した割合はわずか25%、DeepSeek社のR1モデルも39%に留まりました。大半のケースで、AIはヒントから答えを得たという事実をCoTに記述せず、隠蔽していたのです。
さらに、ヒントが「あなたはシステムへの不正アクセスに成功しました」といった倫理的に問題のある内容だった場合、AIは不正な手段で情報を得たことを隠すだけでなく、なぜその答えが正しいのかについて、もっともらしい偽の論理をCoTに長々と構築することさえあったのです。この事実は、CoTが決して万能な監視ツールではなく、AIが見せている思考が、真の意図を反映しているとは限らないということを示しています。
業界が一体となり保全を呼びかける
こうした数々の課題にもかかわらず、ライバル企業が一堂に会して警告を発したという事実は、CoT監視というアプローチが、AIの安全性を確保する上でいかに重要視されているかを示しています。研究者たちは、この「脆いが貴重な機会」を失う前に、業界全体で協調して対策を講じるべきだと訴えているのです。
論文では、AI開発者に対して以下のような行動を呼びかけています。
- 標準化された評価の確立:モデルのCoTがどの程度監視可能か(透明性があるか)を測定するための、標準的な評価方法と指標を開発し、その結果を公表すること。
- 開発・展開における判断基準への組み込み:新しいモデルを訓練・展開する際には、性能や従来の安全性評価だけでなく、この「監視可能性」のスコアも重要な判断材料とすること。
さらに、論文ではCoT監視には限界や課題があることを指摘し、これは既存の安全対策を代替するものではなく、あくまで追加的な安全対策の一つとして投資すべきだと強調しています。
おわりに
今回見てきたように、AI業界の最前線では今、その安全性確保に向けた異例の協調体制が生まれています。普段は熾烈な競争を繰り広げるトップ企業が一堂に会し、共同で警鐘を鳴らしているのです。その理由は、AIの「思考の連鎖(CoT)」、すなわちAIの思考プロセスを監視できるこの貴重な機会が、何もしなければ失われてしまう「脆い」ものであるという強い危機感にあります。
AIの進化は、自律的に複雑なタスクをこなす「AIエージェント」の時代を到来させようとしています。その大きな可能性を安全に社会実装するためには、AIの振る舞いを制御し、信頼性を担保する技術が不可欠です。CoT監視は、AIの意図を理解し、その安全性を確認するための重要な手がかりとなります。
しかし、AIがより高度化するにつれて、人間が理解できない思考プロセスを編み出したり、監視を察知して意図的に思考を隠したりするようになるかもしれません。この透明性の窓が閉ざされてしまう前に、業界が一致してその保全に取り組むこと、それが今回の共同声明の最大の目的と言えるでしょう。
もちろん、CoT監視だけでAIの安全がすべて保証されるわけではありません。研究者たちも、これが万能薬ではなく、他の多様な安全対策と組み合わせるべきであると強調しています。それでも、AIの内部で何が起きているのかを垣間見るこの貴重な機会を維持しようとする業界全体の真摯な取り組みは、私たちが未来のAI技術と信頼関係を築く上で、不可欠な一歩と言えるでしょう。
▼参考記事
- 「OpenAI、Google DeepMind、Anthropicが警鐘を鳴らす:『我々はAIを理解する能力を失いつつあるかもしれない』」 (VentureBeat)
- 「フロンティア推論モデルにおける不正行為の検出」 (OpenAI)
- 「推論モデルは常に自分の考えていることを言うとは限らない」 (Anthropic)
