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馬場 高志2026/02/27 10:00:012 min read

SaaSは死んだのか?市場をパニックに陥れたAIエージェントの真の脅威|イノーバAIインサイト -86

前回の本コラム (https://innova-jp.com/media/ai-weekly/85)では、Anthropic社の「Claude Code」がもたらす衝撃について解説しました。自律的に思考し、修正し、タスクを完遂するその能力は、ソフトウェア開発の現場に「異次元」の生産性をもたらし始めています。

しかし、その衝撃は開発の現場だけにとどまりませんでした。2026年2月初旬、Claude Codeを契機に、世界の株式市場で「SaaS(Software as a Service)の死」というナラティブが急速に広がりました。ソフトウェア企業を中心に時価総額が大きく失われ、市場はAIが既存ビジネスモデルそのものを揺るがす可能性を織り込み始めました。

今回のコラムでは、この一連の市場の動揺を手がかりに、AIエージェントの進化がソフトウェア産業、そしてホワイトカラー労働全体にどのような構造的転換をもたらしつつあるのかを、海外の最新議論をもとに整理します。


「3,000億ドルの蒸発」:SaaS神話の崩壊

2026年2月3日、SaaS、データ企業、そしてソフトウェアへの投資比重が高い金融機関の時価総額から、約3,000億ドル(約45兆円)が一日にして消えました。

直接のきっかけは、Anthropicが発表したAIエージェント機能「Claude Cowork」に付随する法務用プラグインなどのツール群でした。市場はこの一見地味な発表を、AIが既存のソフトウェアを単に「強化」するのではなく、「置換」し始めたシグナルと受け止めました。

その結果、SalesforceやServiceNowなど主要SaaS企業の株価は急落しました。影響はAIで代替可能とみなされた「法務」という特定の業務フローを握っていた企業にも及び、Thomson ReutersやLegalZoomなどの株価も12%以上も暴落しました。

3,000億ドルの市場価値蒸発:SaaS黙示録の始まり (出典: Forbes - Don Muir)
 
なぜこれほど激しい反応が起きたのでしょうか。それは、過去20年間にわたりソフトウェア業界を支えてきた「定説」が崩壊したからです。

これまでの定説では、SaaSは「スイッチングコスト(乗り換えコスト)が高く、一度導入すれば解約されにくいビジネス」とされてきました。しかし、投資家たちは今、AIがその前提を覆すと見ています。

問題はAIがより良い機能を提供できるかではありません。AIエージェントは「人間がソフトウェアを操作して行う業務そのもの」を自律的に実行します。調査、分析、ドラフト作成、調整といった一連のワークフローが、特定のアプリ内に留まらず、複数のシステムを横断して自律的に処理されるようになれば、企業が高額なSaaSのライセンス料を支払い続ける理由は根本から揺らぎます。


「SaaSの死」は過剰反応か?:ビッグテックと擁護派の主張

この暴落は市場の過剰反応であり、SaaSの価値は揺るがないとする冷静な声も少なくありません。


Nvidiaのジェンスン・フアンCEOは、Cisco AIサミットにて「ツール産業が衰退しAIに取って代わられるという考えは、世界で最も非論理的なことだ」と一蹴しました。彼は、人間であれAIロボットであれ、目的を達成するためにはServiceNowやSAPのような優れたツールが必要だと主張しています。GoogleのCEO、スンダー・ピチャイ氏も同様に、AIは既存のソフトウェア企業にとって製品を強化する「イネーブラー(実現手段)」であると強調しました。

著名なテックアナリストであるベン・トンプソン氏は、ソフトウェアの価値はコードそのものではなく、サポートやセキュリティを含む「製品としての信頼」にあると指摘。Microsoftのように強固な流通網を持つ企業は、AIを組み込むことでむしろ勝者になり得ると論じています。


構造的転換の到来:SaaSのビジネスモデルへの真の脅威

しかし、こうした擁護派の見方に対し、今回のショックは単なる市場のパニックではなく、構造的な転換点を示しているという指摘もあります。

テクノロジー投資家のエリック・フラニガン氏は、今回のSaaS株の下落は「SaaSの死」ではなく、これまで過度に高まっていた期待値のリセットであると分析しています。SaaS企業は長年、「高い粗利益率と強固な乗り換えコストを持つ理想的なビジネスモデル」として高い評価を受けてきました。しかしAIコーディングツールの進展によってソフトウェア開発コストは急速に低下し、今後はAIによって低コストで開発された代替ツールや、新しいAIネイティブサービスとの競争が激化するとみられています。

既存顧客の乗り換えがすぐに進む可能性は低いものの、新規顧客の獲得や顧客単価などの面で今後の成長鈍化が懸念され、従来の高い株価プレミアムが維持されにくくなるという見方です。実際、今回の急激な調整を含め、わずか数ヶ月間で、ソフトウェアセクターのバリュエーション(予想株価収益率: Forward PER)は、約39倍から21倍へと大幅に圧縮されました。

指摘されているもう一つの大きなリスクは、SaaSの収益の柱である「シート課金モデル」の崩壊です。これまでSaaS企業は利用ユーザー数に応じた課金によって成長してきましたが、AIエージェントが人間の業務を代替すれば、必要なライセンス数そのものが減少する可能性があります。ベン・トンプソンも、自律型エージェントの普及がシート課金モデルを根本から見直す契機になり得ると指摘しており、大手ソフトウェア企業はビジネスモデルの再設計を迫られる可能性があります。


「AIスケア・トレード」の拡散:コーディングは始まりに過ぎない

今回の混乱はテクノロジーセクターにとどまりません。AIによる破壊の恐怖は、物流、不動産、金融といった伝統的なセクターにも飛び火しました。ウォール街ではこれを「AIスケア・トレード(AI恐怖取引)」と呼んでいます。

物流企業のC.H. Robinsonの株価は、あるスタートアップが「人員を増やさずに貨物量を数倍に拡大できるAIツール」を発表した直後に急落しました。金融業界でも、富裕層向け資産管理の分野でAIによるタスク自動化が発表されると、オンライン証券のチャールズ・シュワブなどの株価が下落しました。

こうした市場の動きの一部は、一時的なパニックかもしれません。しかし、SemiAnalysisは、「コーディングは始まりに過ぎない」と指摘し、AIエージェントによる自動化の影響を過小評価すべきではないと論じています。

同レポートは、Claude Codeがコーディングで実証したワークフローが、実は他のあらゆるデスクワークと構造的に同一であると指摘しています:

SemiAnalysisは、知識労働を次の4ステップに分解します。   

情報労働(ホワイトカラー業務)の4つのステップ
【 1. READ 】 非構造化情報(メール、資料など)を読み込む
  ▼
【 2. THINK 】 ドメイン知識(専門知識)を適用して考える
  ▼
【 3. WRITE 】 構造化されたアウトプット(コード、レポート、資料など)を作成する
  ▼
【 4. VERIFY 】 基準に照らして検証する

Claude Codeが証明したのは、AIエージェントがこのループを自律的に回せるようになったということです。

これは、AIエージェントが、ソフトウェアエンジニアリングだけでなく、法律、金融、コンサルティング、研究など、あらゆる知識労働に適用可能であることを示しています。世界には10億人以上の情報労働者がおり、15兆ドル(約2200兆円)規模の経済圏を形成しています。

市場の動揺は、AIが単なるツールを超え、あらゆる知的業務を代替しうる存在になったことへの、本能的な反応と言えるかもしれません。


株式市場が抱える自己矛盾

ソフトウェアやサービス企業の株価が動揺する一方で、AIを支えるインフラ投資は急拡大しています。Amazon、Microsoft、Google、Metaなどの主要ハイパースケーラーは2026年の設備投資額を大幅に増額し、4社合計で6,300億ドル(約100兆円規模)に達すると予測されています。これは、Claude CodeのようなAIエージェントの普及がデータセンター需要を強く押し上げていることを示しています。

ハイパースケーラーの設備投資 (出典:エリック・フラニガン)
 

しかし皮肉なことに、各社が投資拡大を発表すると、AI需要の恩恵を最も受けるはずのこれらのビッグテック株もSaaS企業と同様に下落しました。

ハイパースケーラー株の最近の値動き(出典: Semafor)
 

バンク・オブ・アメリカのアナリスト、ビベック・アリヤは、市場がAIについて2つの相反するストーリーを同時に織り込んでいると指摘します。

AIがSaaSを破壊するほど強力ならインフラ投資は正当化され、逆にAIが期待外れならSaaSの優位性は揺らがないはずです。しかし市場は、AIの潜在力を恐れると同時に投資回収をも疑うという、自己矛盾に陥っています。

さらに、この巨額投資には「物理世界の制約」という別の問題も存在します。データセンター需要は急増しているものの、電力供給や送電網整備、建設人材の不足がボトルネックとなり、AIインフラの拡張は必ずしも技術の進歩速度に追いついていません。デジタル領域の指数関数的成長と、物理インフラの線形的拡張とのギャップが、投資家の不安を増幅させているのです。


おわりに

2026年2月に起きた「Claude Codeショック」と、それに続く「AIスケア・トレード」は、AIが単なる業務支援ツールから、仕事そのものを遂行する「エージェント」へと進化したことを市場が初めて本格的に認識した瞬間だったのかもしれません。

SaaS企業が直ちに消滅するわけではありません。しかし、AIエージェントが「読み、考え、書き、検証する」という知識労働の基本ループを自律的に回せるようになった今、ソフトウェアの価値はアプリケーションそのものから、ワークフローの統合や成果の実現へと移動し始めています。

問われているのは、「SaaSは生き残るのか」という単純な問いではありません。AI時代において、価値創出の中心がどこへ移るのかという、より根源的な問題です。

ソフトウェアのビジネスモデル、知識労働の役割、そしてそれを支える物理インフラ。私たちは今、それら複数の構造変化が同時に進行する転換点に立っています。今回の市場の動揺は、その未来を先取りした最初のシグナルだったのかもしれません。

▼参考記事

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馬場 高志

1982年に富士通に入社、シリコンバレーに通算9年駐在し、マーケティング、海外IT企業との提携、子会社経営管理などの業務に携わったほか、本社でIR(投資家向け広報)を担当した。現在はフリーランスで、海外のテクノロジーとビジネスの最新動向について調査、情報発信を行っている。 早稲田大学政経学部卒業。ペンシルバニア大学ウォートン校MBA(ファイナンス専攻)。