最近公開されたマイクロソフトとリンクトインの共同アンケート調査「2024年ワーク・トレンド・インデックス年次報告書」*によると、ナレッジワーカーの75%が、すでにAIを仕事に使っています。その内の46%が、6ヶ月以内にAIを使い始めたと回答しており、急速に仕事でのAI利用が進んでいることがわかります。
一方で、リーダーの79%が、競争力を維持するためにAIを導入する必要があると考えていますが、その59%はAIの生産性向上を定量化できるかどうか懸念を抱いています。 こうした懸念はAI導入の動きを鈍らせており、リーダーの60%は組織リーダーシップにAI導入の計画とビジョンが欠けていると懸念しています。
企業において効果的にAIの活用を推進するために、どうすれば良いのでしょうか?
今回はペンシルべニア大学ウォートン・スクールのイーサン・モリック准教授の「潜在的専門知識:みんなが研究開発者(Latent Expertise: Everyone is in R&D)」と題されたブログ記事を紹介します。
モリック准教授は、この記事で、組織の現場レベルの専門家・実務家が生成AIの潜在的な能力を引き出す鍵を握っていると主張しています。
産業革命からの教訓
AIの組織的導入を考える上で、産業革命の歴史から学ぶべき点が多いとモリック准教授はいいます。産業革命期の技術革新は、蒸気機関を発明したジェームズ・ワットなど一部の偉大な発明家の功績と語られることが多いですが、実際には、その技術を様々な産業や工場に適応させ、さらに改良を加えた熟練工や技術者たちによって実現したのです。産業革命が、繊維、冶金、器械製造などさまざまな産業に短期間で拡大したのは、こうした現場の専門家の貢献によるものです。
AI活用における一般的な誤解
しかし、多くの企業は今のところAIを中央のIT部門主導で推進されるべき、単なるコスト削減ツールとしてしか捉えていないように見受けられます。モリック准教授は、これは誤りであり、AIの本質的な価値を理解せずに効率化のみを追求することは、新たな成長機会を逃すリスクがあると指摘します。
IT部門が中央で果たすべき役割はありますが、実際の活用事例は、AIを仕事に役立てる機会を見つける現場の従業員やマネージャーたちから生まれるだろうとモリック准教授はいいます。大企業にとって、AIの真の価値は、AIに潜在する専門知識と従業員の専門知識を組み合わせることから生まれるのです。
エッジでのAI R&Dの必要性
モリック准教授は、AIの真の価値を理解し活用するためには、組織のあらゆる部門でAIを活用した研究開発が行われる必要があると主張します。AIは従来のソフトウェアとは異なり、人間のような柔軟性を持つため、その最適な使用法はIT部門ではなく、各部門の専門家や実務者が見出す可能性が高いというのです。
AIの潜在的専門知識(Latent Expertise)を引き出す
大規模言語モデル(LLM)は、インターネット上の膨大なデータを取り込み、不完全な形ではありますが、多くの知識を学習しています。しかし、訓練データが何であるかが公開されておらず、LLMが訓練データから何を学んでいるのかも必ずしも明らかでないこともあり、LLMがどのような知識を持っているかの全体を私たちは知ることができません。
しかし、LLMがさまざまな専門知識を隠し持っていることは明らかです。いくつかの研究は、LLMは病気の診断において医師を凌駕しうることを示しています。また、患者に共感的な返答をする能力でも、医師を上回っていることを示す調査結果も出ています。
AIの潜在的な専門知識を引き出すには、各分野の専門家の知見が必要です。専門家は、AIの出力の質を正確に判断し、適切な指示を与え、試行錯誤を効率的に行うことができるからです。
ユーザーイノベーション
この点に関連して、モリック准教授はMITのエリック・フォン・ヒッペル教授の提唱したユーザーイノベーションの理論を説明しています (https://evhippel.mit.edu/teaching/)。
これは、イノベーションは必ずしも生産者のR&D部門から生まれるのではなく、むしろ実際の問題に日々直面しているユーザーや実務者の試行錯誤の中から生まれることが多いという洞察です。
ユーザーイノベーションの例としては、マウンテンバイクがあげられます。マウンテンバイクは、単に自分の楽しみのために自転車で山を下りたいと思った一部の愛好家によって開発され、彼らの間でマウンテンバイクというスポーツが生まれました。自転車メーカーは、市場の規模が明らかになるまで何年もただ見守り、待ち続けました。そして、新しいスポーツが十分な数に広まり、その愛好家たちがマウンテンバイクを自作して参加するようになった後になって、はじめて商用マウンテンバイク製品を市場に投入しました。
R&D部門での新たな開発プロジェクトには試行錯誤がつきものであり、大きな投資を必要とするので、簡単に開始することはできません。しかし、自分の仕事の一部として取り組んでいる現場の専門家にとっては、試行錯誤は当たり前のことで難しいことではありません。AIの活用においても、同じだと考えられます。
専門家には多くの利点があります。LLMのエラーやハルシネーション(幻覚)を見抜く能力が高い、自分の関心分野におけるAIのアウトプットをより的確に判断できる、AIに必要な仕事を指示できる、そして、試行錯誤の機会が多いことなどです。こうして、専門家はLLMに潜在する専門知識を他の人にはできない方法で引き出すことができるのです。
AI活用の具体例
モリック准教授は、AIの潜在的専門知識を引き出す具体例をいくつか紹介しています。
- 起業家のダン・シャピロは、良い人材sを引きつけることが事業の成功の鍵と考えておりAIを使って魅力的な求人広告を作成するプロンプトを開発した。
- 米国の工場には、現代的な製造管理ソフトウェアやプロセスに接続できないアナログの計器を使った古い製造機械がまだ多く残っている。アナログ計器の画像をAIで読み取ることが可能になったため、これらの古い製造機械をデジタル化プロセスに統合できる可能性が出てきた
- モリック准教授自身も、複数のAIエージェントを教育用シミュレーションゲームの開発に取り組んでいる。
組織におけるAI活用の促進
AIのアウトプットは差別化のない一般的な内容に陥りがちです。AIを活用して独自のアウトプットを生むためには、専門家が関与して、十分にその潜在的な知識を引き出すことが必須です。そして、専門家が学んだことは組織全体で共有することが重要です。
企業は、現場の従業員がAIの潜在的な専門知識を掘り起こし、それを共有することにインセンティブを与え、エンパワーしなければなりません。これには、さまざまな政治的な問題、法的な問題、コストなど、多くの障壁が想定されますが、これに成功した組織には大きな報酬がもたらされるだろうとモリック准教授はいいます。AIの潜在的な能力を実現し、逆にその潜在的なリスクを軽減するには、いつ、どのようにAIを使うべきかを従業員みんなが理解する必要があります。
モリック准教授は、最近、誰もが潜在的な専門知識にアクセスできるようにすることを目的に、ウォートン校に生成AIラボを設立しました。このラボで、AI活用法を研究開発し、その知見をオープンソースで広く共有していくそうです。
まとめ
モリック准教授は、イノベーションは中央ではなく、エッジの実務者から生まれるという重要な洞察を提供しています。AIは、このエッジでのイノベーションを強力に後押しするツールとなる可能性を秘めています。
AI時代において組織が成功するためには、中央集権的なアプローチを避け、エッジにいる従業員のAI活用を促進し、彼らの専門知識とAIの潜在能力を融合させることが重要となるでしょう。この点、『現場力』や『カイゼン』など、現場レベルの改善を重視する日本企業の文化は、AIの潜在的専門知識を引き出す上で大きな強みとなる可能性があります。
*2024年ワーク・トレンド・インデックス年次報告書:31ヶ国、31,000人のナレッジワーカー(オフィス・リモートを問わずデスクワークを主とするワーカー)を対象に2024年2~3月に調査を実施(https://www.microsoft.com/en-us/worklab/work-trend-index/ai-at-work-is-here-now-comes-the-hard-part)