前回まで二回にわたって、二つの話を書いてきた。AIは知能ではなく「仕様書で動かす機械」だということ(第97回)。そして、要件を詰めてドキュメントで握る"記述力"こそ、日本の隠れた強みだということ(第98回)。
今日はその続きを、一人の経営者の話から始めたい。彼を見ていると、いま日本に足りないものが、くっきり見えてくる。
コードを書くCEO
Shopifyのトビー・リュトケ。時価総額十数兆円のグローバル企業のトップだ。
この人は、少し変わっている。自分でコードを書くのだ。新しいAIモデルが出るたびに、自分専用のプロンプト集を片っ端から試し、「これで仕事のやり方がどう変わるか」を、自分の手で確かめる〔1〕。
2025年の春、彼は社内に、かなり過激なメモを出した。かいつまむと、こうだ——「AIを使うのは、もう必須。人を新しく採る前に、まず"それはAIにはできない"と証明せよ。AIをどれだけ使いこなしているかも、人事評価に入れる」〔2〕。
世間の反応は、案の定だった。「またCEOの格好つけか」「どうせリストラの口実だろう」。多くの人が、そう言って一蹴した。
だが、彼らは見誤っていた。
あのメモは、掛け声ではなかった
このメモが掛け声倒れに終わらなかったのは、思いつきで出したものではなかったからだ。
Shopifyは、その何年も前から、地道な仕込みを重ねていた。ChatGPTが世に出る1年前、2021年にはもう社内でGitHub Copilotを使い始め、社内のあらゆるデータをAIから扱えるように整えていた。号令をかける前に、土台を作り終えていたのだ〔2〕。
象徴的な話がある。この会社でAIをいちばん使い倒していたのは、現場の若手ではない。CTO、つまり役員本人だった。しかも、AIツールが最も速く浸透したのは、エンジニア部門ではなく、営業やサポートの部門だった〔2〕。経営も現場も、AIを本気で使いこなしていたのだ。
対照的なのが、スローガンだけを真似た会社だ。語学アプリのDuolingoは、よく似た"AIファースト"のメモを出して炎上した。「"AIファースト"とは、要するに"人は二の次"ということだろう」と反発を招き、CEOは撤回に追い込まれた〔2〕。
教訓ははっきりしている。明暗を分けたのは、ツールでも、勇ましい号令でもない。「準備」だ。リュトケのメモは、新しい思想などではない。もともとやってきたことを、ただ言葉にしただけだった。
リュトケが、本当に発見したこと
ここからが本題だ。世間はこの件を、たいてい"生産性"や"リストラ"の話として片づける。でも、僕がいちばん面白いと思うのは、リュトケ自身が漏らした、別の発見のほうだ。
彼はこう言っている——AIというのは、背景を余さず伝えないと、まともに動いてくれない。その"伝え方"を鍛えるうちに、CEOとしての自分の物言いまで上達した、と。メールは締まり、メモは要点を突き、判断の筋道もはっきりした〔1〕。
さらに、彼はこう踏み込む。「大きな会社にありがちな"社内政治"の多くは、突き詰めれば、人と人とが前提を握れていないだけだ」〔1〕。
曖昧なまま「共有したつもり」になり、それがすれ違いや、忖度や、対立を生む。AIは、その曖昧さを許してくれない。だから、組織の"握り損ね"が、いやでも露わになる。
AIは、あなたのマネジメントを映す鏡だ
ここに、たった一つ、とびきり効くスキルがある。「完了の定義」だ。
「ログイン画面を作っといて」ではない。「メールとパスワード、GoogleとGitHubでのログイン、二段階認証、30日間のログイン保持、5回失敗したらロック」——そこまで書けるか。第三者が、あなたに何も聞かずに"できたかどうか"を判定できる水準だ〔1〕。
もし書けないなら、その仕事は、AIにも部下にも、まだ任せられないということだ。
つまり、AIは、あなたのマネジメントを映す鏡なのだ。上がってくるものが雑なら、雑なのはAIではない。あなたの"任せ方"のほうだ。
犯人は、現場ではない。経営層だ
さて、日本の話をしよう。リュトケのようなことが、日本の経営者にできるか。正直、難しいと思う。
誤解のないように言っておくと、日本の経営者だって、AIには触れている。ChatGPTに質問くらいはするし、便利だとも感じている。問題は、そこではない。
彼らは、コードを書いた経験がないのだ。だから、いま世界を作り変えている最大の変化——コードがコードを生み、ソフトウェアがソフトウェアを書くという地殻変動——を、肌で実感できていない。
CursorやClaude Codeといった、世界の現場を一変させているツールの名前すら、おそらく知らない。日経新聞を開いても、その"手触り"は、どこにも載っていない。
だから僕は、はっきり言いたい。日本のITが遅れ、AIでさらに引き離されている——その最大の原因は、現場ではない。経営層だ。
技術を、ずっと他人事にしてきた。「よく分からないから、詳しい者に任せる」で済ませてきた。第98回で書いた"丸投げ"を、ほかならぬ経営自身がやってきたのだ。
リュトケは自分でコードを走らせ、AIが数分で動くものを吐き出す瞬間を、何度もその目で見てきた。だから、世界がどこへ向かうのかを、頭ではなく体で分かっている。この"実感の差"が、そのまま国の差になっている。
経営層こそ、自分の手で触れ
言いたいことはシンプルだ。経営層こそ、学ぶべきだ。最新のテクノロジーを、分かる言葉で。
そして——一度でいい、自分の手で、AIにコードを書かせてみてほしい。それが動いた瞬間の、背筋がすっと寒くなる感覚。"コードがコードを生む"世界を、頭ではなく肌で知ること。
新入社員にプロンプト研修を受けさせている場合ではない。まず、社長が、自分で触るのだ。リュトケが、そうしたように。
「自分はエンジニアじゃないから」と怯む必要はない。むしろ、逆だ。
AnthropicがAIでソフトを作らせたコンテスト(Claude Codeハッカソン)で上位に並んだのは、弁護士、医師、大工、教師——プロの開発者ではない人たちだった〔3〕。勝敗を分けたのは、コーディングの腕ではない。それぞれが持つ、現場のドメイン知識だった。
AIが手を動かしてくれる時代、いちばん伸びるのは、若手でも凄腕プログラマーでもない。"何を作るべきか"を知っている、経験豊富なベテランだ。だとすれば、業務を知り尽くし、決める権限も握る経営者ほど、AIで化ける余地は大きい。触れない理由が、どこにあるだろう。